カメラトーク、セッション #1-4

高速バスを降りると、冷気が身体に張り付いた。

知らない場所への不安はない。期待、高揚、興奮。首に提げたニコンの一眼レフ。啓子はそっと撫でた。構え、ファインダーを覗く。ピントを合わせない。とても小さな水の雫、無数の集まりが世界を鈍く膨張させる。

シャッターを切る。カシャ、という柔らかい声。ON. 山の奥へと消えていく。

ここに棲む物事を、鋏で切り抜くような背徳感。小さく余韻が残る中で、啓子は悪くないと震えた。

私は今日、この場所に愛されたい。

cameratalk

九月下旬、夏が俄然残ったままの、東京。

逃げるほど避暑地へ向かうほどでは無い。人間たちは諦め、無言のままに秋の訪れを淡々と待つ。それがマジョリティの流儀。

一方でマイノリティ。夏と秋の挟間、排気ガスを吸い込んだ真夜中のバスに、啓子は乗り込む。わざわざ現地で着替えなくて済むよう、予め山に入る格好で。余計な荷物は持ち込まない。それが山歩きの原則。日々の疲れが堆く積もった金曜日。バックパック一つで遥々訪れる世界を想像する。

同時に想像する、東京に置き去りにしてきた様々な人間たちを。酒を酌み交わす人間たち。中央線は猥雑に混雑。堪らずに新宿で嘔吐。高田馬場で介抱される女子学生。頭の中に形成される無責任なイメージ、一方的に暴力的に、啓子はカメラに収めたい。

カメラを手にする前の啓子は、満員電車が宇宙で一番嫌いだった。十八歳で上京した啓子にとって、満員電車はかつてMDプレイヤーで聴いたロックバンドの歌と同じだった。人数制限を超えて、溢れる電車に飛び込んだ人間たちは、「降ろして欲しい」と願いながら、地獄へと無賃乗車。証明書も乗車権も無いから、人間たちを釈迦は救うまい。救おうと垂らされた蜘蛛の糸は、やはり、欲望の重みに耐えはしない。

若かった啓子は、自転車で通える距離を超えて、夜に外出することができなかった。大学を卒業した後で定職に就かなかったのは、そんな理由もある。

啓子以外の物事と間に、仕切り線が必要だった。点線ではなく、濃いめの実線を引く。二センチ四方で良い、啓子の周りに、自分だけの境界を作りたかった。ずいずいと迫られることに、閉口する。

だのに今、啓子は、総ての人間たちの様子を、自分の目で捉えたい。

人間たちのサバイバル・ゲームを期待する自らの衝動を抑えながら、啓子は或る日或る時間をスタン・バイするようなった。楽しみも悲しみも、無情なほど等価で投影される大都市の真夜中。乗車券を改札機に放りさえすれば、啓子はマテリアルの宝庫に巡り会えた。

ただしマテリアルの宝庫は、今宵、想像上の物語。

バスの目的地は一つだけ。脇視をする状況には無い。途中下車はできない。

そして目的地に近付く。

目的地、英語でdestination. ずっと目的地の英訳はgoalだと思っていた。けれど或る日、啓子はgoalよりもdestinationの方が目的地に相応しい英単語だと知る。デスティネーション。その響きが連想させるのは「死」だったために、啓子はその英単語を嫌悪した。若かった。まだ十代だった。処女を捨てて間もない頃だ。デスティネーション。もう揺り戻せない輝きがあった十代前半は、無意味にエネルギーが表出していた。知らないでいる勇敢さは、知ることで薄れていく。回想するだけでお腹が痛くなるけれど、無機質なイマに馴染むほど擦れてはいない。デスティネーション。一歩を踏み出す前の躊躇。

あのときのイマや、あのときのソレ以前に関する自分を、写真に収めることは無論できない。

写真とは、自分以外の物事を撮るものであり、かつ、現在と未来のこと収めるものだ。どう転んでも、時計の針は戻せない。置き去りにしてしまった今宵の東京を撮ることさえ、もう絶対にできない。十四時間後に東京へ戻るとしても。その東京は、置き去りの東京とは違う。近しいものかもしれない。でも違う。全然違う。その違いが啓子には判る。

啓子は写真を撮る。写真を撮るという行為を強く求めている。

携帯電話に付属したカメラさえ啓子は持て余し、積極的に使おうとはしなかった。なのに、だ。偶然から始まり、啓子はその思いを確実に強めていった。

アルバイト先の居酒屋の内装を撮るように指示された二年前。その場にいたスタッフの中で、たまたま手が空いていたのは啓子だけだった。効率だけを追求したような居酒屋で、手渡されたそのカメラは、名の知れたメーカーの一眼レフだった。重かった。啓子にとって慣れない重量感。相変わらず、嫌な予感しかしない。あのろくでもない連中の、誰があんなカメラを必要としたのだろう。

ファインダーを覗き込んだその刹那、激流が啓子の身体を突き刺した。川で泳ぐ魚が、突然の稲妻に撃たれたように。ピンポイントで。確率は相当に低かったはずなのに。

ファインダー越しに視えた世界は、啓子が知っている世界とまるで違った。シャッターを切る音は胎動の始まりで、それは長い間啓子の中に留まっている。どくどくと、大きな音を立てて。

啓子はすぐにカメラのことを調べた。

知っているメーカーもあれば、初めて聴くメーカーもあった。カメラの種類も多かった。ボディとレンズが別売りされていることに戸惑いを感じた。スペックの違いを理解するために、啓子は電器屋に足を運び、店員の話を聴いた。彼らは熱心にカメラのことを語った。他の客のことなど目に入らないように、啓子のことを待ち受けていたかのように。多くの情報が、すらすらと啓子の中にインプットされていく。

アルバイト先の連中は、啓子がカメラに関心を持ったことを知ると、即座に反応した。

好意的な関心を寄せているのでは無い。啓子のいないところで嘲笑するためのマテリアル。

「啓子が欲しがってるカメラっていくらなの~?」「十万するらしいよ~」「え~うそぉ~」「ばっかじゃないのぉ~」という具合に。奇妙と言えば奇妙だ。本人の自由意思に干渉する筋合いなど、無い。

彼女たちには、ファインダー越しの世界など一生理解できないだろう。

いや、いけない。自分もまだ理解していない、存在だけ、微かに判るに過ぎない。私もまたワンオブゼムであったかもしれないのだ。啓子は自戒する。

啓子は、彼女たちの世界から、また一歩遠く離れた。Far away. 濃いめの実線を二重に引いた。Draw a double line.

もっとカメラに夢中になろう。カメラに愛されたい。そう決心してから、啓子は二度と少女に戻らなかった。

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word:Sohta Hori
illustration:Yukiko Hori

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